高等遊民前夜

ただの日記

七夕の夜に

 木曜日。七夕。特に何の準備もしないままに七夕になってしまった。七夕というすごくロマンチックな文化があるのに、日本でもてはやされるイベントがクリスマスとかバレンタインとかって何故だろうと昔から思っている。(実は、自分の中では答えが出ていて、たぶんお金にならないからだと思う。経済活動に結び付きにくいイベントだし、紐づけて売る商品も少ない。世の中はこういうところは単純だから。)

 ザミア・プミラから新芽が出ていた。ニューカマーだ。こうして伸びてくると、このまま伸ばすか、剪定して今ある葉を大きく育てるか悩むところ。新芽を切るのが忍びないと思ってしまうあたり、私は生産者に向いていない。とことん消費者だ。このザミアは,あった時から既に摘芽した跡があった。商品としての価値を高めるため、一つの芽を大きく育てるために切られたものだ。普段買っている野菜も、果物も、こういったことが行われた先にスーパーに並んでいて、そう思うと途方もない仕事と思う。

 七夕なのに、「若者にとっては恋愛も結婚も子育てもぜいたく品だ」という記事が盛り上がっているのを見た。やっと報道の世界が取り上げるようになったかと感心する。やっとだよ、やっと。これらがぜいたく品になってから10年くらいは経っている気がする。私は、どちらかというまでもなく圧倒的に恋愛をできない人間として生きてきたから、少し共感する部分もあった。

 私は、今や恋愛等々がぜいたく品だ、という考えは理解できるけれど、別の思いもある。確かにいまの若者が貧しくて、年収300万に満たない若者の男性もすごく多くて、女性はもっと多くて、自分の生活を支えるだけで精一杯で、恋愛へ掛ける時間もお金も気力もないのは理解できる。「若者の価値観の変容」だけでは説明できないことが起きていると思う。私も、仮に今お付き合いしている同居人と破局することがあったなら、もう自分から恋愛しようと動くことはないと思う。私の生活にはその余裕も気力もない。細々と消えるように老いていくだけだ。でも細々と自分の暮らしを守っていくのも悪くないなって思っている。

 ただ、そもそも恋愛を当然で万能なことのように思うことが、間違いだとは明確に考えている。昔は日本だけじゃなくて多くの国で、結婚には親や地域が介入して、お見合いとかでお膳立てしていたわけですよ。自分で恋愛しなくても、結婚して家族をもって子供を作れるという体制があったわけで。そうやって人口を保っていたのが戦前までの日本ですよ。そういう制度に救われていた人たちが必ずいたはず。
 もちろん自由恋愛を許さず個人を抑圧する昔のあり方は、当然批判されるべきだけど、かと言って「はい、自由恋愛の時代だから皆さん勝手に恋愛してください、してもらわないと困ります」は無理筋じゃないか。いきなりほっぽり出されて「ハイこの仕事やって」が無理なのはみんな理解できるのに、なぜ恋愛だけはすべての人にある能力みたいに思われるんだろう。恋愛って究極の人間関係で、究極のコミュニケーションだから、そもそも人付き合いが苦手な人は大変だし、そもそも無理して見様見真似でするのもどうかしている。何をどうしたらいいのかも分からない人だっているし、そもそも恋愛自体を欲していない人もいる。人間は当然恋愛をするもの、本能的に恋愛したいもの、という前提自体が間違っていて、それこそが社会的に作られた、異性愛を前提としたロマンチック・ラブ・イデオロギーだ。「恋愛をして、子を産んで、幸せな家庭を築く」という価値観自体が、人口を維持したいという家父長性的な社会要請と密接に結びついている。はっきりいって幻想だと思います。

 今の若者には、本当に恋愛を欲していない人、もしくは社会がいまだ要請しない出産を伴わない恋愛をしている人がいて、そういう人たちに「お金があれば(社会が要請する、いずれ子を産む)恋愛をするんだね」という視線が注がれないといいな。今一番怖いのはそこだ。恋愛の形も、恋愛をしないことも自由であるはずだ。それで人口減になって困るというのは国の事情であって、政策などで対策すべきと思う(子を産みたい人に手厚い子育て支援するとかね)。貧困であることは恋愛をしない若者の理由の一つにはなりえるけれど、すべてではないから。でも、本当に貧困のせいで恋愛をする余裕がない人たちには救いがあってほしいと思う。みんなにとって息がしやすくなるといいのにな。七夕の夜に。